いや~、相変わらずの遅筆ぶりでして、月日の経つのが早いのも相まって、NHKの「ブラタモリ」で山科が放送されてから、2週間以上が経ってしまいました。

今回のブラタモリに関する最後の話題は、山科本願寺です。

後に浄土真宗と名乗ることになる念仏宗の一派は、親鸞聖人に始まります。「聖人」というと雲の上の人、人間離れしたカリスマ、という印象を受けます。
でも親鸞という人は、自身の性欲の強さに悩み抜き、そこで「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生できることを説く法然坊源空と出会い、彼に傾倒して弟子入りします。
悩むほど性欲が強かったなんて俗な話が出てくると、なんだか親鸞聖人も自分と同じ人間なんだな、雲の上の聖人ではなかったんだな、と妙な親近感を感じます。

法然坊源空は、「法然」という名で知られています。比叡山延暦寺の山中にある法然坊という坊舎で暮らしていたことから「法然」と呼ばれるようになりました。後に浄土宗の開祖と呼ばれるようになりましたが、本人は自身を天台僧と認識していたそうです。

源空の教えは「南無阿弥陀仏」(念仏)を唱え阿弥陀如来にすがれば、誰でも極楽往生できる」というものでした。性欲の強さに悩んでいた親鸞はこの教えに救われ、後に独自の信仰理論を打ち立て、多くの人々が彼のもとに集うようになりました。

ただ、親鸞聖人は「何もせず、ただ阿弥陀仏にすがれ」と教えながら念仏を唱えることを勧めています。この不作為と作為の整合性に関する理論は非常に難解で、私にはよくわかりません。多分親鸞聖人の教えを受けた民衆も理解できなかったと思いますが、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽往生できるという考え方は、極楽に行くためのハードルが著しく下がりますので、多くの人たちが親鸞を信仰しました。

こうした親鸞の教えを受け継いだ人たちを教団として組織化したのが、親鸞から数えて8世の法系にあたる蓮如上人です。

山科・西宗寺にある蓮如上人の像

蓮如は信者を寺ごとにまとめ、それらの寺を本願寺を頂点とした末寺として、組織化された教団を創り上げたのです。

蓮如は北陸と三河を中心に布教活動を行いました。そして彼がもう1箇所精力的に布教をした土地があります。近江です。比叡山延暦寺のお膝元です。

比叡山の経営は、その末寺である天台宗寺院からの上納によって成り立っていました。しかし蓮如の布教活動により、近江にある天台宗寺院の多くが本願寺教団に転宗してしまいました。経営が脅かされることとなった延暦寺は怒り、寛正6年(1465)1月に当時大谷(京都市)にあった本願寺を襲撃し、これを破却したのです。これを寛正の法難といいます。

大谷を脱出した蓮如は青蓮院に匿われ、その後近江各地を逃げ回ります。東海道草津宿の北、中山道守山宿の西にある金森(かねがもり)に逃げ込んだとき、金森の信徒たちは結束して延暦寺の僧兵たちと戦い、蓮如を守りました。

金森の町並み

これが史上初の一向一揆といわれています。

そんなことをしているうちに、三河から蓮如の門弟であった上宮寺(徳川家康の時代の三河一向一揆の拠点として知られています)の住職如光がやってきて「これは金の問題です。私にお任せください」と言うと、比叡山に出向いて延暦寺に金を支払い、延暦寺による襲撃をいったん収束させたのです。

しかしその後も2年にわたって比叡山による襲撃は断続的につづき、蓮如は大津の園城寺に匿われ、その境内に近松御坊を建ててしばらくそこに滞在しました。

現在は大津駅の近くにある近松別院(元近松御坊)

この頃の伝承として、延暦寺の僧兵に襲われた蓮如が隠れたと伝わる名号石がある安養寺や、毒殺されそうになった蓮如の身代わりに毒を食べて死んだ愛犬の墓と伝わる犬塚が、大津の東海道沿いにあります。

安養寺と蓮如上人旧跡の碑
犬塚

園城寺から今度は越前の吉崎にまで蓮如は逃げ、ここに念仏道場を築きます。これが吉崎御坊です。この後応仁の乱が起こり、蓮如が畿内に戻ることができたのは、文明10年(1478)ころのことといわれています。

この年に、山科に新たな寺の建設が始まりました。これが山科本願寺です。

山科本願寺は旧東海道の南に位置します。どこにあったのかといいますと、こんなに広い範囲にわたっていました。

跡地には説明の看板があります。そこに書かれた絵を見ると・・・

なんと! まるで城!

大谷の本願寺を襲撃されて、なすすべもなく拠点を破壊されたためでしょうか、山科の本願寺は高い土塁で囲まれた巨大城郭のような姿をしていました。

その土塁の跡に行ってみました。

この公園の中に土塁があると聞いてきたのですが、あの木がこんもりしているところにあるのかな?

近づいたら山でした。土塁はこの上か?

結局どこに土塁があるのかわかりませんでした。え?

この山全体が土塁の一部なの???

手前に立っている人と土塁の大きさを比べてください

でかすぎます。これまであちこちの城跡で土塁を見ましたが、こんなに大きなものは初めてです。これじゃ土塁と気付きません。

ブラタモリの中で紹介されていた浴室の跡にも行きました。

これだけ大きかった山科本願寺、どうして今は残っていないのでしょう?

実は本願寺教団は、蓮如の曾孫の証如のときに軍閥化しました。管領細川家や周囲の戦国大名たちとの利害によって、同盟や敵対を繰り返し、積極的な軍事行動をするようになったのです。ついには当初は本願寺の後ろ盾で最大の同盟者でもあった管領細川晴元とも敵対することとなり、天文元年(1532)8月、細川家の画策により近江の大名六角氏や延暦寺、法華一揆などによって山科本願寺は攻められ、本願寺は「落城」し徹底的に破壊されてしまったのです。

証如はこれによって、教団を率いて大坂にあった石山御坊に移りました。こうして石山御坊を増改築したのが、後に織田信長との熾烈な抗争の舞台となった石山本願寺です。

かなりざっくりと本願寺の歴史を見てきました。(偉そうな言い方をしましたが、私もざっくりとしか知りません)

山科本願寺の跡地の隣接地には、江戸時代に建てられた西本願寺と東本願寺の寺院があります。

本願寺山科別院
山科別院長福寺

安土桃山時代に西と東に分裂した本願寺ですが、江戸時代になると山科本願寺の旧地がどちらの本願寺の所有に属するか争論となり、ついには幕府へ訴えが出る事態となりました。しかし幕府からしてみたら、どっちに所有を認めても争いのもとになると考え、結局明確な裁定を下しませんでした。

そこで西と東の本願寺が、それぞれ山科本願寺の旧地に隣接する場所に独自に建てたお寺が本願寺派(西)の本願寺山科別院と真宗大谷派(東)の山科別院長福寺なのです。

さて、番組では山科本願寺を紹介する中で、土塁の形状が複雑に折れ曲がっていたことについて、解説の先生とタモリさんとの間でこんな会話がありました。

先生「土塁と堀がかなり高い技術で計画的につくられたということが、おわかりいただけるかと思います」

タモリさん「それ以後、お城が真似をするわけですね」

先生「武士や大名がこの山科本願寺のつくりを目にして、その技術を学んだのかもしれないと・・・」

タモリさん「いや、そうだと思います」

これ、おそらく台本に書かれていた結論について、専門家の先生が言いよどんでしまったところを断定しちゃったように見えました。テレビ番組を面白くしようとする意図はわかるんですが、先生が言ってもいないことを強引に結論づけない方がいいんじゃないのかなあ・・・。

もう一度繰り返しますが、私はNHKに喧嘩を売る気はありません。
ただ、私の周辺にいる同業者がみんなNHKに出演経験があるのに、なぜか私にだけはオファーがないことを申し添えておきます。

当舎で主催している「京都まであるく東海道」では、まさに京都三条大橋二到達する最終回に山科を通ります。

そのとき、この場所から「ここから南に行ったところに、山科本願寺がありました」と言って、ここに書いてあるようなお話をしています。

みなさまも機会があったら是非山科本願寺の跡へ行って、いや「京都まであるく東海道」で一緒に歩きましょう!

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

参照文献
「戦国時代と一向一揆」(竹間芳明著)
「蓮如」(松原泰道著)
「聖典講讃全集 第7巻 蓮如上人之部・真宗聖典解説」(宇野円空編)
「第 244 回京都市考古資料館文化財講座 山科本願寺レジュメ」