岡崎宿に、あらたに徳川四天王像ができました!
2月18日と19日の「京都まであるく東海道」で、お客様と一緒に見てきました。

場所は新たに架けられた桜城橋の北側、こちらも新たに整備されて中央分離帯が拡張されて公園化された中央緑道です。

徳川四天王とは、徳川家康の天下取りを武力で支えた4人の武将たちのことです。

本多忠勝、通称平八郎。「家康に過ぎたる武将」とまで称された猛将です。生涯に50回以上も戦場に出ながら、一度も傷を負ったことがないといわれています。

本多忠勝像

酒井忠次、酒井左衛門尉家の当主です。四天王の中では唯一家康より年上で、家康が若かったころから支え続けた武将です。三河統一戦や長篠合戦で活躍しました。

酒井忠次像

榊原康政、通称小平太。本多忠勝と同い年、武勇においては忠勝に劣るが、用兵においては忠勝に勝ると称されました。文武両道に優れ、秀吉を弾劾する「十万石の檄文」の逸話で知られます。

榊原康政像

井伊直政は、四天王の中で最も若く、また、ただ1人三河出身ではありません。遠江、浜名湖の北にある井伊谷の出身です。「井伊の赤備え」「井伊の赤鬼」として怖れられました。

井伊直政像

簡単に四天王の紹介をしましたが、これだけでは東海道のガイドの仕事とは言えません。
東海道のガイドなのだから、東海道と絡めた話ができなくてはなりません。

それではまいりましょう!
東海道から見た徳川四天王の話。

本多忠勝の名前は岡崎到達以前にも出てきました。
三ヶ野の大日堂の前に「本多平八郎物見の松」の跡と記された説明板がありました。この本多平八郎というのが本多忠勝です。

三方原合戦の前哨戦となった三ヶ野・一言坂の合戦。この戦いにおいて忠勝は殿軍を務め、武田軍の追撃を食い止めながら味方を逃がし、最後に自分も天竜川を渡って逃げ切りました。

本多忠勝が物見をしたと伝わる大日堂から武田本陣跡を見渡す風景

このときの戦いぶりを見ていた武田の武将が、忠勝を評して言ったのが「家康に過ぎたる武将」です。
家康なんかにはもったいないくらい良い武将だから、武田においでよ!のようなニュアンスです。

忠勝は後に東海道の要衝である桑名を任されます。桑名城と桑名の町を築いたのも忠勝です。そのまま忠勝は桑名で没し、今も桑名には忠勝の墓と銅像があります。

本多忠勝の墓
墓所のある浄土寺と、寺の門に描かれた愛槍「蜻蛉切り」
桑名城跡にある本多忠勝の像

岡崎にある酒井忠勝の像は、三方原合戦で家康が武田信玄の敗れた後、浜松城に迫った武田軍に対して、太鼓櫓にのぼった忠次が太鼓を叩いて味方を鼓舞し、これを見た武田軍が「浜松城は備えが万全だ」と思って引き返した、いわゆる「酒井の太鼓」の逸話をモチーフにしています。

この逸話に出てくる太鼓、実は岡崎到達以前の東海道で出会っています。

この太鼓です。
あった場所は見付宿にある見付学校の中。ここに展示されていました。「伝」ではありますが、酒井忠次が三方原合戦の折りに叩いたと伝わる太鼓が見付宿に買い取られ、学校で時報代わりに使われていたということです。

家康が三河を統一した後、東三河の中心地である吉田を与えられています。吉田城とも関わりがあるのです。

伝酒井の太鼓が置いてある旧見付学校
吉田城址の石垣と土塁。酒井忠次の時代より後のもの

榊原康政には兄がいました。榊原清政です。
兄の清政の名前は江尻宿で出てきました。

清政は徳川家康の長男信康の側近でした。しかし信康は武田と内通した疑いをかけられたといわれていますが、21歳で自害させられてしまいます。

それから27年後、清政は久能城の城代を家康に命じられました。久能城に行く途中、駿府城へ家康に挨拶に行くと、そこで家康から信康の遺髪を渡されました。

その遺髪を、清政は江尻宿の江浄寺に埋葬して墓を建てたといわれています。

その墓がこれです。写真を見ると、「京都まであるく東海道」のお客様も思い出してくださいます。

最後に井伊直政。かれは2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の後半の主人公でした。

井伊家発祥の地

桶狭間合戦後、遠江の国衆たちによる今川氏に対する大規模な反乱が起こります。いわゆる遠州忩劇(えんしゅうそうげき)です。

これにより疑心暗鬼に陥った今川氏真は、反乱に加担していると疑った国衆たちを次々に粛正していきます。

井伊城跡

井伊直政の父直親も、謀反の疑いをかけられ駿府に弁明に赴きます。ところがその途中の掛川城下で、今川の兵の襲撃を受け、同行していた家臣もろとも殺されてしまいました。

再建された掛川城 江戸時代のもので直親の時代のものではありません

その直親の家臣たちの首が埋葬されたといわれる場所が十九首塚です。

一般的にはここは平将門とその郎等たちの首が埋葬された場所とされていますが、本当は井伊直親の一行20名が殺され、首を駿府にもっていかれた直親をのぞく19人の首が埋葬されたという説があるのです。

平将門の首を埋葬したという場所は、東京の大手町をはじめとして日本各地にありますので、将門の話よりも井伊直親の話の方に信憑性を感じます。

この十九首塚も掛川の東海道沿いにあります。

徳川家康は東海道を西へ東へと兵を進めて戦いつづけ、そして東への進出をはたしました。

彼の部下である四天王たちも同じく東海道で戦いました。

それゆえ徳川四天王にゆかりの地が、東海道のあちこちにあるのです。東西を結んで人物や事件について語ることができる、これが東海道をあるく醍醐味のひとつです。