「白い子兎のようじゃ。食ってやろうか?」
令和5年のNHK大河ドラマ「どうする家康」第2回での織田信長の台詞です。
第2回ダイジェスト
https://www.nhk.or.jp/ieyasu/video/33.html
(このセリフのシーン、出てきませんけど・・・)
言われた相手は松平竹千代、後の徳川家康です。
徳川家康という人は、若いころに何度も名前を変えていてややこしいので、ここでは今後「家康」で統一します。
家康は幼少期に織田氏の人質になっていました。その期間は2年ほど。
その後は織田・今川両氏間での人質交換によって、今川氏の人質となりました。今川氏の人質として家康は19歳まで駿府で過ごしました。
ドラマの中では今川義元にかわいがられ、年上の恋人瀬名と結婚し、駿府での家康の生活はとても幸せだったと描写されています。
ところがその前段階の尾張の織田氏の人質だったころは、相撲で信長にぶん投げられ、水に投げ込まれ、家康が一軍の将となっても信長に対して恐怖感を抱くほどの生活を送っていました。(あくまでドラマの中での話です)
家康が織田氏の人質になったいきさつについては、以前は家康の父松平広忠が、宿敵織田信秀(信長のおやじです)と戦うための援軍を得るため、今川氏に人質として家康を送ろうとしたところ、送迎役の戸田康光に裏切られて織田氏の人質にされてしまったと言われていました。
ところが近年の研究では、あらたに発見された手紙を根拠として、織田信秀の攻勢によって松平広忠が屈服させられ、家康が織田氏への人質として差し出されたという説が有力になっています。
織田に屈服したはずの松平広忠だったのですが、どういう事情か(このあたりはまだ解明されていません)すぐに今川陣営に戻ったために、家康は敵である織田氏の中に取り残されることになってしまいました。
戦国時代というシビアな世界観の中で、極めて極めて極めてビミョーな立場であったことは間違いありません。
そんな立場の家康が預けられていた場所、それが東海道の熱田宿にあります。
歌川広重の浮世絵をはじめとして「宮宿」と呼ばれることが多い宿場ですが、当時の宿場と幕府、あるいは尾張藩徳川家との間でやりとりされた文書には、すべて「熱田宿」と書かれていますので、正式名称が熱田宿、俗称が宮宿です。
そのためここでは「熱田宿」と書きます。
織田信秀は、家康を熱田宿の豪族加藤図書助順盛に預けたそうです。「図書助」は「ずしょのすけ」、順盛はおそらく「のぶもり」と読みます。
加藤図書助は熱田の湊を支配する武装商人だったと考えられます。彼を信頼して信秀は松平の人質である家康を預けたと考えられます。
岡崎城を本拠地とする家康が生まれた松平家は、三河に割拠する国衆の1人とはいえ、三河の最大勢力でした。
三河をなんとしても手に入れたい信秀としては、広忠は味方に引き入れなくてはならない人物です。
そんなわけで敵方の人質でありながら、信秀にとってみれば家康を殺すわけにはいかなかったのでしょう。
さて、家康が預けられた熱田の加藤家は、湊の東に水濠で囲まれた城のような屋敷に住んでいました。
熱田の人々も、加藤家の屋敷を「熱田羽城」と呼んでいたそうです。
明治の地図にも、その屋敷の様子が描かれています。
濠こそはなくなったものの、10年くらい前までは加藤家の人々はこの場所に住み続けていました。長い塀のつづく大きな屋敷でした。
ところがやはり相続などで大変だったものと思われます。現在では加藤家の屋敷があった場所は、一戸建ての住宅が並ぶ住宅地となっています。
かつて加藤家の塀の内側から外に向けて建てられていた「徳川家康幽居の地」という看板も、住宅地のなかにぽつりと立っている状態になっていました。
その看板の場所にも新たに家が建つこととなり、看板は近くの公園に移設してしまいました。
「白兎」とドラマの中で呼ばれていた幼き日の家康、彼が住んでいた場所は現在は住宅地となっているのです。