1週間遅れになりましたが、NHK大河ドラマ「どうする家康」を見ました。

今川義元亡き後、松平元康(のちに徳川家康)に背かれ、遠江で反乱が起き、凋落をつづける今川の当主、氏真の苦悩と最後の戦いが描かれていました。

永禄11年(1568)、北から武田信玄、西から徳川家康の侵攻を受けた今川氏真は、駿府を放棄して掛川城に入ります。しかし掛川城も徳川軍に包囲され、半年におよぶ戦いの後に氏真は家康に城を明け渡し、妻の実家である北条氏の支配する小田原へと退去しました。

歴史というのは過去の真実を追究するものです。
それらは当時書かれた書面などを中心に追い求められます。
そのため確定的な歴史的事実と認定できるのは結果だけであることが多く、そこまでに至る理由、つまりは関わりのある人々の思いや感情はわからないことが多いです。

その思いや感情の空白部分があるからこそ、その空白を埋める小説やドラマというコンテンツが存在するわけです。

「どうする家康」も歴史的事実を若干まげているところはありますが、人々の思いや心情を埋める脚本はなかなか巧みで、「そうきたか!」と唸ることもしばしばです。

今回(といっても1週間前)に放送された「氏真」の回では、父の築いた「今川王国」の終焉を目の当たりにすることとなる息子の氏真の思いと感情を、徳川家康とともに過ごした時間の回想を交えながら描いていました。

さて、ドラマでは氏真の内面を重点的に描いていましたので、かなり端折られていましたが、大名としての今川氏滅亡に関しては、今川、武田、徳川、それに北条の4勢力が関わっています。

遠江で起こった今川氏に対する反乱「遠州忩劇」、武田信玄はこれを見て同盟関係にあった今川を見限り、駿河の領土化をはかったとされています。
そして徳川家康と密約を結び、北と西から今川領に攻め込んだというのが通説です。

侵攻が始まったときにはすでに今川家臣たちに対する調略が進んでおり、氏真のために戦おうとする今川氏の武将たちは数少なくなっていました。

そのためいったん武田軍迎撃のために薩埵峠へと出陣した今川氏真も、武田との正面衝突を避けるために駿府に引き返し、やがて駿府も放棄して掛川城に落ちていくこととなります。

※薩埵峠(さったとうげ)の文字は「薩」に「土偏に垂」

広重が描いた薩埵峠
現在の薩埵峠からのながめ

さて、私は歴史の専門家ではなく、東海道のガイドですので、歴史の話に深入りをしてボロが出る前に東海道の話をしましょう。

「どうする家康」では岡部元信による「・・・朝比奈、みな武田方に付きました」という台詞がありましたが、武田に付いたのは庵原の朝比奈氏で、東海道にある掛川城の朝比奈氏は今川のために最後まで戦っています。

武田信玄による駿河侵攻は永禄12年と同13年の2回にわたって行われており、12年の侵攻では今川との同盟を維持した北条氏康が援軍を送り、武田軍の退路を絶つために東海道を薩埵峠まで進出したため、信玄はせっかく駿府を攻め落としたにもかかわらず、兵を引かざるを得なくなりました。

武田軍を撤退させた北条は、蒲原城に一族の北条氏信(新三郎)を駐屯させ、武田への抑えとしました。

蒲原城は東海道蒲原宿の北の山の上にありました。

本丸跡に建つ蒲原城址の碑
今も残る壕の跡

ところが信玄は駿府の領土化を諦めていませんでした。そこで永禄13年には再び兵を興し、今度はまず蒲原城を攻略して北条新三郎を戦死させ、それから駿府へと向かいました。

北条新三郎の墓は、三島宿と蒲原宿にあります。

蒲原宿の北条新三郎の墓
三島宿の北条新三郎の墓(右)

信玄が駿府に着いてみると、想定外の事態が起こっていました。
今川氏の重臣だった岡部正綱が、前年の侵攻で焼け落ちた駿府の今川館の跡地に立て籠もり、武田軍に戦いを挑んできたのです。

駿府城本丸の発掘調査現場(今川屋形の跡地と推定)

岡部正綱は「どうする家康」にも出てくる岡部元信の一族だといわれています。兄弟とも従兄弟ともいわれていますが、関係ははっきりとはわかりません。

ちなみに岡部氏は、その名のとおり東海道岡部宿付近を本拠地としていた豪族です。

岡部宿近くにある岡部正綱の墓(左)

岡部の兵は強く、信玄は力攻めでは駿府を落とすことができませんでした。 そこで一通りの戦いが終わった後に和睦交渉に入り、岡部正綱を退去させることでようやく駿府を手に入れました。

なお、駿河が武田氏の領土化された結果、岡部元信も正綱も、のちに武田氏の家臣となっております。

府中宿(駿府)にある岡部正綱の墓

さて、一方で駿府を放棄した今川氏真は、掛川城主の朝比奈泰朝に迎えられ、この城に入りました。

なお、朝比奈氏は岡部氏と同族とされる駿河の豪族でしたが、このころには今川氏から掛川城を任せられ、遠江の掛川を本拠地としていました。

ところが掛川城は、西から攻め込んできた徳川家康の軍に包囲されてしまいます。

現在、掛川城は江戸時代に建てられた天守閣がすべて木造で復元されています。今川氏真が籠城したときは、現在とはだいぶちがった姿だったでしょう。

「京都まであるく東海道」で訪れた掛川城

包囲された掛川城で、今川氏真も朝比奈泰朝もよく戦いました。
その様子は、かなり脚色されていたものの、「どうする家康」で放送されたようなイメージだったのでしょう。

掛川城には、徳川軍の攻撃に対して霧を吹いて城を守ったと伝わる井戸があります。

天守丸霧吹き井戸

今川軍と徳川軍は、掛川城の本丸の北東にある掛川古城をめぐって激戦を繰り広げました。
ここには江戸時代に掛川城主になった北条氏重が築いた東照宮があります。

「京都まで歩く東海道」で訪れた東照宮

しかし時勢はすでに今川にはありませんでした。
今川氏真は徳川家康と講和交渉に入り、掛川城を明け渡して小田原へと退去することで決着しました。

こうして戦国大名としての今川氏は滅亡しました。
南北朝時代に足利尊氏の部将として戦場で活躍し、戦国時代には東海の覇者となった今川氏の寂しすぎる最後でした。

ところで、その後の今川氏真ですが、諸国を放浪し、京都では親の仇である織田信長の前で蹴鞠を披露し、そして最後は徳川家康の家臣となりました。
今川氏は旗本として、幕末まで存続しています。