前回5月7日放送と次回14日放送の大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が武田信玄と死闘を演じた三方原合戦とそれにいたる経緯が描かれます。
その中でちらっと「一言坂にて戦い」という言葉が出てきました。
この一言坂で行われた徳川軍対武田軍の戦いは、三方原合戦の前哨戦ともいえるもので、「一言坂の合戦」あるいは戦闘が三ヶ野川(太田川)から始まっているので「三ヶ野・一言坂の合戦」とも呼ばれています。
「どうする家康」で山田裕貴さんが演じている本多忠勝は、この戦いで敵である武田軍から賞賛されるほどの戦いをしました。
東海道とその周辺には、その関連地や伝承地がいくつもあります。今回はそのお話です。
まず、「どうする家康」は歴史を題材としたドラマですから、すべてが歴史どおりではありません。ドラマの中では偵察に出た本多忠勝の手勢が武田軍を相手に戦い、傷だらけになりながらも戻ってくるというものでした。
一言坂の合戦とは「磐田市史」などによると、遠江に侵入した武田軍に対して、徳川家康が3000ほどの兵を率いて威力偵察に出たところ、なんと武田信玄が率いる本隊と三ヶ野川で遭遇してしまい、徳川軍は敗れたものの大久保忠世、本多忠勝、内藤信成らの奮戦によって、家康は天竜川の西へと逃れることができ、3人の武将も家康の跡を追って退却したといわれているものです。
この戦いで、三ヶ野川西岸にある大日堂では本多忠勝が対岸の武田軍の様子をうかがったという話が伝わっています。
三ヶ野川での武田軍との戦いに敗れた徳川軍は、見付、一言坂を経て天竜川へと退却するのですが、この退却戦での本多忠勝の戦いぶりはめざましく、敵の追撃を何度も撃退し、ついに武田軍に追撃を諦めさせたほどだといわれています。
この忠勝の強さは敵である武田軍ですら褒めたほどで、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭と本多平八」との落首が武田軍によって掲げられたと伝わります。
唐の頭とは、徳川家康が主だった家臣たちに与えた舶来もののヤクの毛で、もらった者たちは兜にこれを付けていました。ドラマの中にも出てきましたね。
「本多平八」はいうまでもなく、本多平八郎忠勝のことです。この落首は、「家康にはもったいない武将だから、武田軍においでよ」くらいの意味です。
さて、このとき忠勝は、見付の町に火を放って武田軍の追撃を妨害して、撤退戦を成功させたと伝わっています。見付の町とは、江戸時代に東海道の宿場となった見付宿のことです。現在の見付宿の様子がこちら。
一言坂は、見付宿から天竜川の渡し場との間にある坂道です。一言坂は江戸時代以前の東海道の一部で、江戸時代には姫街道と呼ばれていた道にあります。
江戸時代以前からある本来の一言坂は細い坂道ですが、現在は国道1号に一言坂の合戦の碑と説明板が設置されています。
見付の町に火を放って撤退したという点について、伝わっているもう一つの話があります。
見付宿には「御朱印屋敷」と呼ばれている上村家という旧家があります。当主の上村清兵衛は冷酒造りを得意としており、見付にやってきた家康に自作に冷酒を振る舞い、家康から「冷酒(ひやざけ)清兵衛」と呼ばれていたそうです。
この冷酒清兵衛、一言坂の合戦で家康を天竜川の対岸に逃がすために、見付宿に火を放って武田軍の追撃を妨害したと伝わっています。
その功績によって家康から税の免除を保証する朱印状と刀を賜ったそうです。
見付の町に火を放ったのが、本多忠勝なのか、上村清兵衛なのか、あるいは2人が協力して火を放ったのか、そのあたりは明らかではありません。
そして家康と忠勝ら3人の武将たちが船に乗って天竜川を渡ったのが、池田の渡し場です。
ここは江戸時代にも東海道の渡し場として機能していました。流れの速い天竜川ですから、船が流されることを見越して、渡し場は東海道から1キロほど上流に設けられていました。
池田の渡し場は平安・鎌倉期には宿場があったとされる場所です。この地の美女である熊野(ゆや)御前の物語が伝わり、広大な藤棚のある行興寺には花の季節には大勢の人たちが訪れます。
ところで本多忠勝は、生涯合戦で傷を負ったことがなかったといわれています。ドラマの中では傷だらけ血まみれで帰ってきて「返り血じゃーーー!」と強弁していました。一言坂の合戦の真実も含めて、「家康にすぎたる武将」本多忠勝の本当の姿は、はたしてどのようなものだったのでしょうか?
ところで一言坂の合戦について調べていったところ、意外な事実につきあたりました。
え、え~~~!
そうだったの?!?!
それはまたの機会に。
→つづく
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)