当舎で東海道をご案内している「日帰りであるく東海道」」「京都まであるく東海道」ですが、2020年7月に日本橋を出発した第4シリーズが、まもなく三条大橋に到達しようとしています。
夏の間の3か月のお休みをはさんで、10月21日に土山宿から「京都まであるく東海道」は再開しました。なお、写真に写っている人たちは、私と一緒に歩いているお客様です。また、当日以外の日に撮影した写真を一部に含みます。
土山宿、古い建物がたくさんあります。
そしてコスモスがきれいです。
土山は茶の産地です。
土山茶の始まりは、常明寺の鈍翁和尚が京都の大徳寺から茶の実を持ち帰ったことです。この実から木を育て、寺で飲用に用いたのが始まりとされています。
茶が土山の名物となったのは、永雲寺の天嶺和尚がこれもやはり大徳寺から茶の実を持ち帰り、ここから育てた木から茶を作り、街道沿いで旅人たちに分け与えたことです。
この茶の製法を北土山の庄屋だった松山佐平治が引き継ぎ、土山宿の土産品として売り出したことから、茶が土山宿の名物となったのです。
土山宿から水口宿までの間は、かつてとあまり道幅の変わっていない東海道が残っています。
酒蔵あります。
道標あります。
川もあります。
そして土山宿から水口宿の間には、伊勢神宮が創建されるにいたる伝説が残っています。
この甲可日雲宮は小さな神社ですが、朝廷内に安置されていた天照大神の依代を新たに安置する場所を探す旅に出た倭姫が、伊勢にその場所を見つける途中に4年間滞在したと伝わる神社です。
そして1日目は水口宿に到着して終了しました。
水口宿は城下町です。
江戸時代に水口藩の城下町だっただけではなく、それ以前の安土桃山時代には宿場の北の山に水口岡山城がありました。
水口は東海道に2箇所しかない道が三筋に分かれた宿場の1つです。
この3筋の道をじっくりとめぐります。
連子格子、馬つなぎ輪、ヴォーリズ建築など、なかなか見応えがある宿場です。
曳山も見学させていただきました。
水口宿を出ると、一直線の道がつづきます。北脇畷です。
この一直線の道の先にあるのは・・・
高さ10mの巨大な常夜灯。野洲川(横田川)にある横田の渡し場の跡です。
渡し場跡に至る途中にあるのは・・・
植城跡。甲賀武士の城です。
土塁が残っています。細い溝は水濠の跡です。
ここの支配者山中氏は、関ヶ原合戦に先立つ伏見城攻防戦で徳川軍の援軍として城に籠もり全員討ち死にしています。
彼らの遺族は甲賀組として徳川家の御家人となり、子孫が里帰りをしたときに建てた戦死者の墓が残っています。
野洲川を渡って先に進みます。左手に見える山は三雲城の跡です。
岩が多い山です。巨岩の八丈岩は東海道からもよく見えます。
ここには「鬼滅の刃」に出てくる岩のモデルと言われている割れた丸岩もありまして、行きはしなかったものの写真でご紹介しました。
そしてこのトンネル。
トンネルの上、実は川だったんです。地面よりも水面が高い川のことを天井川といいます。水口から石部宿にかけては、天井川が多かった地域です。
天井川はいったん堤防が決壊すると一気に水が流れ落ちて危険なため、川を付け替える工事が進められていて、現在ではトンネルの上を川が流れているところはなくなりました。
でも、トンネルの上が川だったなんて、びっくりです!
石部宿に着きました。静かなたたずまいです。
本陣の跡には、今も本陣家の人たちが住んでいます。
今回は石部駅で終了しました。石部駅、建て直し工事中です。新しいきれいな駅になりそうです。
今回歩いた土山宿から石部宿は、ほとんどの場所がかつての東海道の道幅で、瓦屋根の木造住宅が多く、旧街道の風情が濃厚な区間でした。
次回は石部宿を出発し、草津宿で一泊して石山駅まで。次々回は石山駅を出発し、大津宿で一泊していよいよ三条大橋へ。
三条大橋到達のことを考えると気持ちが高ぶるのと同時に、これで旅が終わってしまうのかという寂しさを感じてしまいます。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
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