「富塚」という地名は日本中にたくさんあります。それによく似た地名もたくさんあります。
裕福を意味する「富」という字が使われていて、なかなかおめでたい地名のようにみえます。
でも、どうやらどうではないようなのです。
「富塚」の地名由来は大きく分けると2つありそうです。
1.古墳
2.十三塚
前回のブログで書いた浜松の「富塚」という地名の由来は前者の古墳でして、その古墳とは両光寺にある妙法塚だそうです。この妙法塚は、古代に近畿から東征してきて、そのままこの地を治めた「登美の首人」(とみのおびと)の墓で、そのため「登美塚」(とみつか)と呼ばれるようになり、その塚に後世に法華経を写経して埋めたことから「妙法塚」と呼ばれるようになったといいます。
現在の妙法塚は、昭和63年(1988)ころに発掘調査が行われた後、石を積み上げて作り直されたものです。
古墳が由来となった「富塚」の地名がある一方で、やはり地名の由来となっている「十三塚」なのですが、これが何なのかといいますと、実はよくわからないのです。
どうやら民間信仰で造られた塚らしいとはいわれています。あるいは村と村などの境界を定めるために築かれた塚ともいわれています。
十三塚は平安時代・鎌倉時代ころに、日本の各所に築かれたらしいのです。形状は大きな塚1つと、12の小さな塚からなることが多く、配置は大きな塚を中心にして一直線だったり、円を描くようなものもあるということです。
なにしろ十三塚が築かれた理由がよくわからない上に、現存しているものも少ないとあり、十三塚の正体は本当にわからないのです。
この十三塚を「とみつか」と呼ぶ例があり、それが転じて「富塚」になったのではと考えられています。
そしてこれら十三塚には、人の死にまつわる伝承が多いのです。
柳田国男が全国の十三塚の事例を収集・分類して著した「十三塚考」や、神奈川大学日本常民文化研究所による「十三塚 ー現況調査編ー」によると、十三塚の伝承には戦国時代に戦死した武士や、非業の死を遂げた女性にまつわる伝承が多く伝わっているそうです。
前者については13人の武将を葬ったり、主君1人と家臣12人を葬った、合戦での戦死者たちを100人ずつ13箇所に葬ったなど。
後者については姫と12人の侍女を葬った、13歳の女子を葬った、人質になって殺された妻子を葬ったなどの伝承があるそうです。
さて、浜松の富塚は古墳があったことが地名の由来とされていますが、ここは戦国時代に築山殿が死んだ場所・・・、なんだか十三塚に類似した匂いがぷんぷんします。
でも、浜松市の富塚町が十三塚が由来だと明確に書き残されたものは一切ないですし、十三塚との関連について書かれたものもないんですよね。なんとも不思議です。
東海道がらみでは、吉田宿がある豊橋市には十三塚とよく似た十三本塚と呼ばれる場所があります。現在は富本町という町名になっています。
この場所は永禄4年(1561)ころに吉田城下で起こった人質殺害事件の犠牲者13人が葬られたという伝承があります。
「奉納大乗妙典」と刻まれた納経供養塔がその名残だといわれています。
吉田城での人質殺害事件とは、桶狭間合戦の後、西三河の徳川家康が今川氏に背いたのをはじめとして、東三河でも国衆たちが動揺し、今川を見限る者も出てきたことから、東三河の国衆たちから差し出され吉田城に預けられていた国衆たちの妻や子供13人が、今川氏によって城下の竜拈寺の門前で磔にされて殺されたという事件です。
東海道とはちょっと離れていますが、碧南市の大浜にも、かつて十三塚とか富塚と呼ばれていた場所があります。
ここは織田信長が初陣で攻めた場所なのですが、地元の伝承では信長はこのとき待ち伏せ攻撃に合い、多くの兵を失ったそうです。このとき戦死した織田方の兵を13の塚に埋葬したのが十三塚なのだと伝わっています。
東海道沿いに話を戻しますと、かつては他にも十三塚やよく似た塚があったようで、例えば武蔵国と相模国の境界である境木にあった十三塚は宅地開発によって消滅してしまいました。
よく似たものとして、掛川には十九首塚と呼ばれるものがあり、これは平将門とその18人の郎党の首を埋めた場所といわれていますが、本当は戦国時代に裏切りを疑われた井伊直親の主従が今川氏に討たれた場所ともいわれています。
最初は19あった首塚ですが、最終的には1つを残して失われ、その上に供養塔を設けていました。現在の十九首塚は、場所を移して整備し直したものです。
小夜中山峠にもいくつもの塚があります。
小夜中山峠に蛇の体をもつ怪鳥「蛇身鳥」が現れて、村人や旅人を襲うようになったとき、都から怪鳥退治の武士たちが派遣されてきました。ところが彼らは蛇身鳥に殺されてしまい、埋葬されたのがこの塚だという言い伝えがあります。
袋井市の七ツ森神社も、同じように蛇身鳥退治に来て逆に殺されてしまった武士たちを埋めた場所という伝承があります。
数はちがいますが、十三塚に伝わる人の死の伝承という特徴は一致しています。
東海道戸塚宿(横浜市戸塚区)の地名由来となったのは、富塚八幡宮の裏にある富塚古墳です。
これもそのままずばり「富塚」ですが、これは平成22年に測量調査が行われ、全長約32m、後円部直径約24m、前方部幅約8mの前方後円墳であることがわかっています。「十三」などの数字の話もないので、戸塚の富塚は十三塚とは関係ないただの古墳のようです。
じつは都内にも十三塚がいくつかあったようです。
杉並区にある東円寺の境内には、「十三塚碑」という石碑があります。
この寺から200mほど北に救世軍の病院がありますが、この付近にあった十三塚が開発によって失われたため跡地に碑が建てられ、その碑がさらに寺の中に移転することになったのだそうです。
稲城市と川崎市麻生区の境には、13個の塚が今も並んでいます。平尾十三塚と呼ばれています。平尾の十三塚のある場所は、東京都と神奈川県のちょうど都県境の線上にあります。
十三塚と近くにある入定塚とを結んだラインを村の境にすると、江戸時代の文書に記述があるそうです。
それが現在まで踏襲されて、東京都稲城市と神奈川県川崎市のちょうど境目に十三塚があるのです。
ところが、東京側の土地が都の住宅公社によって開発されたため、十三塚は各塚の東京側の半分が削られてしまったのです。
十三塚が13個すべて残っているのはめずらしいのですが、それらの塚が全て半分だけという何とも奇妙な状態で現存しているのです。
13の塚が現存するといっても、写真を見てもわかるとおり木や草に塚が埋もれていて、形がまったくわかりません。
現地に行って直接見てもわかりませんので、この記事を読んだからといってわざわざ行く必要はありません。行ったところでどうせわかりゃしませんから。
さて、謎が謎を呼ぶ十三塚ですが、伝承は伝承として、中世の人たちが塚を築いた意味合いとしては、民俗信仰の祭壇だとか、村と村との境を表すものなどと推定されています。
村境という点については、境木はその名のとおり武蔵と相模の境ですし、平尾の十三塚は稲城市と川崎市の境にあります。
人の死にまつわる伝承の富塚(十三塚)、全然めでたくない富塚、いったい富塚・十三塚とは何ものなのでしょうか?
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
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