吉原の大門前で書店「耕書堂」を営んでいた蔦屋重三郎は、天明3年(1783)に日本橋に進出します。
日本橋にあった書物問屋の店舗を買い取り、そこに新たな耕書堂の店舗を設けたのです。
日本橋とはいっても、この浮世絵に描かれた橋のある近くではなく、大伝馬町ちかくの日光道中沿いにある通油町でした。
場所はここ。
橋からは約1キロのところ、現在の日本橋大伝馬町です。
このことについてはすでにこちらの記事に書いてあります。
→日本橋の蔦重
重三郎が耕書堂を出店した通油町とその西にある通旅籠の近辺は、江戸の版元や書物問屋が集中していた場所でした。
後述のように紙や絵の具の荷上場が近くにあったことも理由のひとつでしょうが、やはり以下に書くような日本橋という地域の特性が大きく影響していたように思われます。
江戸時代からブリッジの日本橋の周辺地域を「日本橋」と呼んでいたようです。
それでは蔦屋重三郎が出店した、この日本橋とはどのような地域だったのでしょう。
まず、基本的な情報として、
日本橋は東海道の起点
中山道も日本橋が起点
日本橋川が流れている
という3つの要点があります。
つまり交通と物流の拠点だったのです。
こういう場所は、商業が発展します。
だから日本橋には魚河岸がありました。
ここでは船で運ばれてきた魚が毎朝荷揚げされ、魚河岸に店を構える仲買人たちはこれを午前中には売り切っていました。
一日で千両の金が動くとまで言われていた、大きな市場が形成されていたのです。
でもこんな話は誰でも知っています。
誰でも知っている話しかできないようでは、町歩きを職業とする者として名折れであります。
そこで改めて申し上げます。
日本橋には魚河岸よりも巨大な荷上場、市場があったのです!
その荷上場は橋の日本橋から北東約300~600メートルの範囲にわたっていました。
江戸時代に発行された江戸の地図「金鱗堂板江戸切絵図」にも、その荷上場が描かれています。
巨大な2本の行き止まりの水路が描かれています。
右側の一直線のものが堀江町入堀、左のL字型御ものが伊勢町堀と呼ばれていました。
ここでは江戸で消費される物品のうち、日本橋の魚河岸と京橋などにあった青物河岸で荷揚げされる生鮮食料品以外のほとんど全てのものが荷揚げされていました。
荷揚げされた物資は堀沿いにびっしりと並んだ蔵に納められ、この地に店を構えた商人たちによって江戸の町へと流通していたのです。
その様子は「江戸名所図会」にも描かれています。
この2つの荷上場では、米、塩、材木、干物、傘、畳表、履き物、薬、紙、絵の具などありとあらゆるものが荷揚げされていました。
人は魚だけで生きていけるものではありません。
日本橋の魚河岸が大きな市場であったことは間違いではないのですが、魚と野菜以外のほとんどのものが荷揚げされていた堀江町入堀と伊勢町堀。
データがないので正確な数値まではわかりませんが、こちらの市場の方が規模が大きかったことは間違いないでしょう。
このように川に架かる日本橋から堀江町入堀・伊勢町堀までは、巨大な商業地域だったのです。
そしてその東側には遊興地が広がっていました。
荷上場の東には芝居小屋街と吉原遊廓があったのです。
これらの絵は、いずれも浅草に移転した後のものです。
芝居小屋は天保14年(1843)に、吉原遊廓はもっと早くて万治元年(1658)には日本橋地区から浅草に移転しました。
でも移転前には現在の人形町駅の周辺に、芝居小屋街と遊廓があったのです。
堺町には中村座、葺屋町には市村座と、江戸三座と呼ばれた芝居小屋のうちの2つはここにあったのです。
中村座と市村座の周囲には、浄瑠璃小屋も集まっていました。
日本橋地区の一角であるここは、あたかも江戸のブロードウェイと呼んでもよいような活況を呈していたのです。
一方で吉原です。
吉原遊廓は浅草に移転後、新吉原と呼ばれるようになりました。
それに対して移転前の場所は元吉原と呼ばれるのようになりました。
遊廓には女郎屋だけがあったわけではありません。
料理屋や揚屋(待合、料亭)もありました。
近くに芝居小屋があったことも影響し、遊廓移転後の元吉原は花街(料亭街)として発展しました。
葭町(芳町)の花街です。
現在も人形町には見番があり、芸者さんたちが在籍しています。
1軒だけとなりましたが、料亭もあります。
このように流通と遊興、2つの町が隣り合わせにあった地域が日本橋です。
多くの人が集まるところで、まさに書物と浮世絵を出版する版元が店を開くのにぴったりの地です。
だから鶴屋、西村屋、鱗形屋などの版元も、多くは現在の日本橋大伝馬町に店を開いていました。
→「べらぼう」の版元たち
このようなこともあり、蔦屋重三郎もこの日本橋に耕書堂を出店させたのでしょう。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
【画像出典】 国立国会図書館デジタルコレクション
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