日本橋を令和2年7月に出発した「京都まであるく東海道」の第4シリーズが、間もなく三条大橋に到達します。長かった東海道の旅も、もうすぐ終わりです。
そんなときに、うれしいことがありました。
令和5年10月には、水口宿に到達しました。水口は城下町です。江戸時代には加藤家が藩主の水口藩がありました。
水口藩で藩医を務めていた岩谷家という家があります。明治時代に巌谷と苗字の字を変えて政府に務めていた巌谷一六は、この水口藩の岩谷家の出身です。

国立国会図書館デジタルコレクション「書道全集」第25巻より
巌谷一六は能書家として知られ、日下部鳴鶴、中村悟竹とともに「明治三筆」と呼ばれていました。
ここが水口宿にあった巌谷一六の住居跡。


ここで私が
「大磯宿の和菓子屋さんで買い物をしたとき、巌谷一六が書いた看板があったんですけど覚えていますか?」
とお客様に聞いたところ、
「このお菓子を買ったところですか?」
とスマホにあった写真を見せてくれたお客様がいらっしゃいました。

お客様から見せてもらった写真とはちがいます。
大磯宿の老舗和菓子店の新杵さん、

名物の西行饅頭や虎子饅頭をお客様と買ったとき、私が「一六居士題」と書いてある看板の話をして

「この看板の文字を書いたのは巌谷一六です。彼はこのずっと先でまた出てきます」と言ったのを覚えていてくださったのです。
嬉しいです!
水口宿から石部宿に向かう途中には、旗本高木家の陣屋の跡地があります。道沿いに説明の看板が出ています。


この高木家、実は東海道のずっとずっと以前にも出てきています。場所はこの個性爆発の狛犬があった神社。

日本橋を出発して、東海道を歩いて3回目、蒲田から生麦まで歩いた回で、多摩川にほど近い六郷神社に旗本高木氏が奉納した手水鉢があったのです。

その手水鉢についても覚えていたお客様がいらっしゃいまして、5年前に撮った手水鉢の写真を見せていただきました。


筆者が撮影したもの
手水鉢に書かれている奉納者の名前について、私がわざわざ読みやすいように懐中電灯で照らしてまで話をしたので、そのお客様は写真に撮影していたのだそうです。
そうしたらこうして京都が近くなったところで、また高木氏の話が出てきたのでスマホにあった写真を探してくださったのです。
私の話を覚えていてくださっていた。しかも5年も前のこと。
嬉しいです!
東海道は東西に530キロもある道です。ここを多くの人たちが往来して現在にいたっています。だから東海道には同じ人物、関わりのある事件についての話が、あちこちに残っているのです。
東海道のガイドというのは530キロにわたる情報を集めなくてはなりませんから、地元だけの案内をしているガイドさんには情報の質で適いません。だから別々の場所にあるのに関連する情報を収集して、これをお客様にご案内しなければ、それこそ存在価値を疑われてしまいます。
そして各所に点々と残っている話が、それぞれ関連してつながっていく、これを知ることが東海道を歩く楽しみの1つでもあるのです。
こうしてお話しした話を、しかも何年も前にお話しした話を覚えていてくださるお客様がいらっしゃる。これは東海道を案内した冥利に尽きるというものです。
とても嬉しいです!
東海道は情報の宝庫です。私が知らない情報もまだまだあるというのが実情です。
今後もひきつづき情報収集に努めて、お客様に東海道の面白さを伝えていくことに努めます。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
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