昭和18年(1943)まで、JR中央線(当時は国鉄)の御茶ノ水駅と神田駅の間には、万世橋駅がありました。
場所はここ。
この駅が開業したのは明治45年(1912)、今も高架部分のイギリス積みのレンガが残っています。
その跡地は平成後期になって再整備され、平成25年(2013)に商業・展示施設マーチエキュート(mAAch ecute)神田万世橋としてオープンし、かつてのプラットフォームもデッキやレストランとして開放されました。
デッキへは駅開設当初の明治45年の階段と、あとから増設された昭和10年(1935)の階段の2箇所から昇れます。
旧プラットフォームのデッキ。誰でも自由に入ることができます。すぐ横を通る中央線の車両がなかなか迫力あります。
万世橋駅は、開業当初は西からやってくる甲武鉄道のターミナルステーションでした。大正8年(1918)に東京駅まで線路が延伸されましたが、それまでは西からの東京への入口だったのです。そのため辰野金吾(のちに東京駅丸の内駅舎を設計した人)が設計したレンガ造りの駅舎など、威容を誇る駅が建設されました。
駅前には銅像が建っていました。
日露戦争で戦死した海軍少佐広瀬武夫像です。
ちなみに広瀬少佐が戦死したのは、海軍が行った旅順港閉塞作戦のときでした。ヨーロッパからやってくるロシアのバルチック艦隊の到着前に、旅順港に逃げ込んでいたロシアの旅順艦隊を港に閉じ込めようと、日本海軍は旅順湾の入口に古い輸送船を沈めたのです。この商船の1隻に乗って指揮を執っていたのが広瀬少佐です。
しかし旅順港閉塞作戦は商船がロシアの旅順要塞からの激しい砲撃を受けて失敗しました。そこで海軍は陸軍に、陸地から旅順港内のロシア艦隊を攻撃することを要請しました。こうして起こったのが旅順攻防戦です。日露戦争屈指の激戦となったこの戦いは、映画「203高地」や小説・ドラマの「坂の上の雲」で有名です。
万世橋駅に話を戻します。
レンガ造りの立派な駅舎だった万世橋駅ですが、関東大震災で大きな被害を受けました。レンガ造りの駅舎はその一部だけを残して補修され、駅の運用をつづけました。
昭和10年には取り壊した駅舎の跡地に交通博物館が開館しました。そのときに駅から直接交通博物館に行けるように作られたのが昭和10年の階段です。
また、交通博物館の建物を固定するために鉄骨を入れた跡が、四角い穴となってレンガの壁に残っています。
駅舎と交通博物館の跡地の地面には丸いガラスがはめ込んであり、その下にはレンガ造りの駅舎の土台や交通博物館のコンクリート製の土台の一部を見ることができます。
しかし近くにある神田駅と秋葉原駅の利用者が増えるにつれ、万世橋駅の利用者は減っていきました。そしてついに昭和18年(1943)、休止という名目で万世橋駅は廃止されてしまいました。
昭和20年(1945)に戦争が終わると、GHQは政教分離を目的に、公共施設内の宗教要素を排除する命令を出しました。万世橋駅前のシンボルであり東京の観光名所でもあった広瀬武夫像は、戦争中まで広瀬が「軍神」とされていたことで宗教的なものとみなされて取り壊されてしまいました。
そして平成18年(2006)には交通博物館が閉館し、さいたま市の大宮に移転して鉄道博物館となりました。
地面に埋めてあるレールのタイルは、交通博物館の前にあった新幹線と蒸気機関車があった場所を表しています。
長らく利用されることなく残っていた万世橋駅の跡ですが、平成25●に整備し直してマーチエキュートとなりました。駅舎や交通博物館のあった場所には、JRのビルが建っています。
コンビニや喫茶店もあり、なにより東京の鉄道インフラの歴史を学ぶ場として、万世橋駅の跡は現在もかつようされています。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
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