2014年1月1日午前0時、歩き旅応援舎はイベントの受付を開始しました。
当舎ではこれを創業ととらえています。
だから2024年1月のいま、歩き旅応援舎は10周年のなのです。
はじめて開催したイベントは古地図散歩でした。竜閑川の跡をあるくコース、ちょうど10年前の今日、1月11日でした。
この古地図散歩へのお申し込みは1名様のみでした。
今もお客様がすくなく、1名様のこともありますが、この当時はだいたいお客様の数は0名様か1名様でした。
知名度もなく、大規模な広告を打つお金もない、それなのにインターネットで見つけて来てくださる。
たった1名様のお客様でも、たいへんありがたかったのがこの時期です。
当舎はいまでも1名様でもお申込があればイベントを開催しています。
これにはいろいろな理由がありますが、「初心を忘れない」という意味も大きいのです。
「初心を忘れない」
私はとても大切なことだと思います。お申し込み人数がすくないことを理由に、もしこのころの古地図散歩を中止していたら、いま歩き旅応援舎は確実に存在していませんでした。だから初心は忘れてはいけないと、いつも心に銘じております。
最盛期は新型コロナウイルス感染症が始まる少し前、古地図散歩だけでも年間に1200人のお客様にご参加いただき、「あと何年かしたら、消費税を納めなきゃ行けないなあ」なんてことを考えるほど収益も右肩上がりでした。
ところがその後参加者数が頭打ちになり、そしてやってきた新型コロナウイルス感染症。何ヶ月にもわたって収入がない、そんなどん底も経験しました。
こうして迎えた10周年、感染症以外にもいろんなことがありました。
新たな縁ができたり、それとは逆にやむなく相手と縁を切らなくてはいけない事態が起こったこともあります。
さらには新しい分野へのチャレンジもありました。オリジナル商品の販売もその1つです。
都内の古地図散歩だけではなく、東京の日本橋から京都の三条大橋までの東海道をあるくイベントも始めました。
実は創業早々にも東海道をあるくイベントはあったのですが、お申し込みがゼロのことが多く、一時期断念していたのです。
最初は他の団体からガイドを引き継ぐ形で三島から始めました。
2回目からは独自にお客様を集め、日本橋出発となりました。そしてすでに4回、お客様を京都までご案内しています。
歩き旅応援舎は極めて小さな事業者です。
前提条件がまったく異なる大手旅行会社などの真似をしていたら、すぐに存続できなくなってしまいます。
そんな弱小事業者が生き残るためには、ここにしかない独自の価値を生み出さなくてはなりません。
この世界でオンリーワンの存在でいるためにはどうすればよいか? どうすべきか?
いつもこのことのために知恵を絞りつづけ、気付いたら10年たっていました。
どんどん世の中は便利になっていきますが、過ぎ去ったことの中には忘れてはいけないものがたくさんあります。
私が生まれ育ったこの国にも、400年前からその中心にある東京にも、忘れてはいけないもの、知らなくてはいけないものがたくさんあります。
できる限り多くの人たちに、これらの情報を知ってもらうことを目的に立ち上げたのが、歩き旅応援舎です。
これからも独自の立場で、創意や工夫を凝らした東京の町歩きや東海道の歩き旅に、よりたくさんの皆様をご案内しようと思います。
これからの10年も、さらにその先も、歩き旅応援舎をどうぞよろしくお願いします。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
最新のブログ記事
- 宮代屋事件 明治初期の大磯で起きた大事件明治前期の日本を襲った大不況の中で、大磯宿では凄惨な事件が起こっています。東海道沿いに説明板などは設置されていませんが、事件を伝える碑があります。
- 茶屋の薬師堂 夜に歩く石地蔵の謎相模国二宮の川匂神社、その参道は東海道から始まっています。参道入口にある薬師堂には、夜になると地蔵が歩くという伝説があるのです。信じますか?
- 吾妻神社 なぜ二宮町にヤマトタケルの伝説があるのか?二宮町に入った東海道を歩いていると、吾妻神社の鳥居があります。ここが参道入口で、吾妻山を登ったところに神社があります。ヤマトタケルの妻を祀ったこの神社、その由緒とは?
- 等覚院 「藤巻寺」と呼ばれる二宮町の真言宗寺院二宮町にある等覚院は「藤巻寺」の異名のあるお寺です。徳川家光や仁和寺宮も鑑賞した藤とは、どのような花なのでしょうか。
- 国府本郷の一里塚跡 大磯の西にもあった一里塚の跡東海道には一里塚が設置されていました。大磯宿の西にもありました。一里塚の説明板が設置してあります。でも本当に一里塚があったのはここではなくて・・・
- 大磯切通し 戦国武将はなぜ大磯に陣を布くのか?東海道大磯宿から西へと歩いて行くと、道が切通しを通ります。江戸時代前期にはすでにあった切通し。この切通しのおかげで大磯は戦国時代の重要地になりました。
- 鴫立庵 西行ゆかりの大磯宿最大の観光名所江戸時代初期に成り立った鴫立庵は、江戸時代の東海道大磯宿で最大の観光スポットでした。現在も年間1万人もの人が訪れる鴫立庵を簡単に紹介します。
- 海水浴発祥の地 混浴禁止?! 医療行為?! 大磯の初めて物語日本最初の海水浴場が開かれたのが、かつて東海道の宿場として賑わっていた大磯でした。でも、当初の海水浴はいまとはだいぶ様子が違っていたようです。
- 榮太樓の別荘 日本橋の老舗が大磯宿に築いた別荘日本橋の南詰にある和菓子の老舗榮太樓総本舗。この店の主人の別荘が大磯宿にあったのです。今も残るその遺構とは?
- 東海道五十七次(3) 江戸幕府が京街道を管理下においたのはなぜ?もともとは江戸と京都とを結んでいた東海道が、後には豊臣秀吉が整備した京街道と接続され、東海道が五十七次となりました。この大阪までの道を、江戸幕府が管理しようとした理由は何だったんでしょう?