東京都港区に虎ノ門という地名があります。
よく知っているという人も、行ったことがなくても聞いたことがあるという人も、ともにいらっしゃると思います。
当舎の古地図散歩「江戸城外堀一周」では必ず通る場所ですので、私たちガイドや常連のお客様にはお馴染みの場所です。
今回はその虎ノ門のお話です。
1 虎じゃないのに虎ノ門?!
虎ノ門の地名の由来は、江戸時代には外堀があり、その外堀に設けられていた城門の1つである「虎之御門」があったことだとされています。
門の名前に「虎」が付くのは、この門が江戸城の寅の方角にあるからだといわれています。
十二支で寅というと、子、丑、寅・・・と12のうちの3番目が寅になります。子が北のことですので、時計回りに数えていくと、寅の方角は少し北寄りの東ということになります。
さて、虎ノ門の江戸城での位置関係はというと・・・
なんと! 虎ノ門は南!
意外なことに虎ノ門は十二支の寅の方角ではありませんでした。
でも諦めないでください。中国には四神といって東西南北の四方を守る動物の姿をした神がいるのです。
玄武、青龍、朱雀、白虎です。
これらの四神は、まさに虎ノ門にある金刀比羅神社の鳥居にも像が取り付けてあります。
これらの四神が東西南北のそれぞれどこを守っているのかというと・・・
白虎は西! 南じゃない!
結論
虎ノ門の「虎」とはなんなのか?
「わからない」というのが正解です。
2 虎ノ門なのにドラえもん?!
みなさんは「ドラえもん」はご存知だとおもいます。
未来から来た猫型ロボット。四次元ポケットからさまざまな不思議な道具を取り出して、のび太君を窮地から救ってくれます。
ところでこちらは虎ノ門ヒルズ森タワー。
その1階にはなぜか白いドラえもんが。
え?なんでドラえもん???
と思ってよく見ると・・・
ドラえもんじゃなくてトラのもん???
3 虎ノ門じゃないのに虎ノ門?!?!
先ほど港区虎ノ門の地名は、江戸城外堀の城門があったことだと書きました。
この城門から地名の虎ノ門や、虎ノ門交差点、さらには地下鉄銀座線の駅の名前の由来となりました。交差点には虎ノ門の碑が建てられています。
外堀は埋められてしまいましたので、現在の町を見ただけでは、外堀がどこにあったのかわかりません。名前からして外堀通りが外堀の跡? とも思ってしまいます。
それでは、江戸城外堀があった場所と、城門の虎ノ門があった場所を現在の地図に引き写してみましょう。
なんと! 虎ノ門は虎ノ門交差点にあったのではなかったのです。ここでもう1枚、地図に加筆しました。千代田区と港区の区界です。
虎ノ門があった場所は、現の霞が関三丁目の交差点でした。
しかも虎ノ門の跡地である霞が関三丁目交差点は、港区ではなく千代田区!
港区虎ノ門の地名の由来は城門の虎ノ門です。でも本物の虎ノ門(虎之御門)は、港区虎ノ門ではなく千代田区霞が関にあったのでした。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
最新のブログ記事
- 宮代屋事件 明治初期の大磯で起きた大事件明治前期の日本を襲った大不況の中で、大磯宿では凄惨な事件が起こっています。東海道沿いに説明板などは設置されていませんが、事件を伝える碑があります。
- 茶屋の薬師堂 夜に歩く石地蔵の謎相模国二宮の川匂神社、その参道は東海道から始まっています。参道入口にある薬師堂には、夜になると地蔵が歩くという伝説があるのです。信じますか?
- 吾妻神社 なぜ二宮町にヤマトタケルの伝説があるのか?二宮町に入った東海道を歩いていると、吾妻神社の鳥居があります。ここが参道入口で、吾妻山を登ったところに神社があります。ヤマトタケルの妻を祀ったこの神社、その由緒とは?
- 等覚院 「藤巻寺」と呼ばれる二宮町の真言宗寺院二宮町にある等覚院は「藤巻寺」の異名のあるお寺です。徳川家光や仁和寺宮も鑑賞した藤とは、どのような花なのでしょうか。
- 国府本郷の一里塚跡 大磯の西にもあった一里塚の跡東海道には一里塚が設置されていました。大磯宿の西にもありました。一里塚の説明板が設置してあります。でも本当に一里塚があったのはここではなくて・・・
- 大磯切通し 戦国武将はなぜ大磯に陣を布くのか?東海道大磯宿から西へと歩いて行くと、道が切通しを通ります。江戸時代前期にはすでにあった切通し。この切通しのおかげで大磯は戦国時代の重要地になりました。
- 鴫立庵 西行ゆかりの大磯宿最大の観光名所江戸時代初期に成り立った鴫立庵は、江戸時代の東海道大磯宿で最大の観光スポットでした。現在も年間1万人もの人が訪れる鴫立庵を簡単に紹介します。
- 海水浴発祥の地 混浴禁止?! 医療行為?! 大磯の初めて物語日本最初の海水浴場が開かれたのが、かつて東海道の宿場として賑わっていた大磯でした。でも、当初の海水浴はいまとはだいぶ様子が違っていたようです。
- 榮太樓の別荘 日本橋の老舗が大磯宿に築いた別荘日本橋の南詰にある和菓子の老舗榮太樓総本舗。この店の主人の別荘が大磯宿にあったのです。今も残るその遺構とは?
- 東海道五十七次(3) 江戸幕府が京街道を管理下においたのはなぜ?もともとは江戸と京都とを結んでいた東海道が、後には豊臣秀吉が整備した京街道と接続され、東海道が五十七次となりました。この大阪までの道を、江戸幕府が管理しようとした理由は何だったんでしょう?