2024.9.15
大坂の仇討ちー遺恨編ーからのつづきです。
嘉永6年(1853)7月2日、川越藩士須藤九右衛門が品川宿からの帰り道に殺害されました。
犯人と目される宇土藩士の子原鑊は広い駿河のどこかにある妙道寺という寺にいることしかわからない状況でした。
九右衛門の3人の子、隼太郞、平次郎、金三郎は父の仇討ちを誓いますが、鑊の居所はつかめずにいました。
そんなとき、有力な情報が入ります。
駿河の妙道寺の住職が、江戸に出府してきたのです。
須藤兄弟は宇土藩下屋敷に出入りしていた駿河屋源之助を通じて妙道寺住職から聞き出し、寺が東海道吉原宿にあることがわかりました。
ところで、江戸時代後期の吉原宿の絵図を見ても現在の地図を見ても、吉原宿に「妙道寺」というお寺はありません。
妙善寺、妙延寺、妙祥寺など似た名前のお寺の誤記と思われます。
ただ、仇討ち事件の顛末書には「妙道寺」と書いてあるので、ここでは「妙道寺」で統一します。
11月9日、当主が横死した須藤家は家名断絶となり、翌日に九右衛門の遺族は親戚に預けられました。家名断絶は不本意でしたが、一方で仇討ちのための自由が効くようになりました。

須藤九右衛門の長男隼太郞29歳、次男平次郎19歳、三男金三郎16歳は11月15日に高輪二本榎の川越藩松平家の下屋敷を出立し、東海道を吉原宿へと向かいました。
4日目の18日に、須藤三兄弟は原宿に到着しています。
昔の人は歩くのが速いです。
一方で吉原宿妙道寺で出家していた原鑊は、江戸にいる妙道寺住職からの手紙で須藤三兄弟が吉原宿に向かったことを知り、「7月2日に川越様ご家来須藤氏を殺害したのは自分で間違いない」と住職に返事を書き、自身も江戸に向かいます。
19日、須藤三兄弟は吉原宿へと向かう途中で追いついてきた使いの者から、鑊が妙道寺住職に出した返書の内容を知らされ、切歯扼腕して吉原宿に到着します。
ところがここで、鑊はすでに吉原宿を出て東海道を東へ向かったことがわかります。
三兄弟は再び東海道を引き返し、この日は沼津で一泊しました。
20日に箱根を越えた三兄弟は、箱根湯本で鑊らしき旅の僧を見つけます。
しかし相手が鑊である確証がなかったのか、そのまま跡をつけつづけたところ小田原宿で姿を見失ってしまいました。
21日に小田原宿を出た三兄弟は鑊が向かったと思われる江戸へと進みます。
夕方になり藤沢宿の入口あたりで、再び昨日の僧を見つけました。
しかし藤沢宿内の曲がり角(遊行寺前のこと?)でまたしても見失ってしまいました。
僧が藤沢宿に泊まったのか、戸塚まで進んだのかわからない状況で、三兄弟は相談して、隼太郞と金三郎が戸塚宿まで進み、平次郎が藤沢宿に泊まることにしました。
22日の払暁、平次郎が遊行寺の裏門前付近で鑊らしき僧を見つけました。
平次郎は僧を追い越し、急ぎ戸塚宿へと向かい、隼太郞と金三郎に知らせました。
隼太郞はすぐに宿役人に仇討ちの旨を知らせますが、突然のことで宿役人もすぐには返答できません。
隼太郞は返答を待ちきれず、弟たちと戸塚宿を飛び出すと大坂へとやってきました。
すると日が昇るころ、坂の上から僧が降ってくるのが見えたのです。
隼太郞は僧に近づき声をかけました。
おそらく原鑊かどうか確かめるために、名前を呼びかけたのでしょう。
僧が反応したため、三兄弟は名乗りを上げ「父の仇、覚えがあろう」と決闘を挑みました。
当時の旅人たちは朝が早いです。
このときもすでに大坂には多くの通行人がいて、この仇討ちの様子を見ていました。
僧の姿をしていた原鑊は三兄弟から挑まれて、東海道の脇道へと逃げ込みました。
隼太郞がこれを追い、少し遅れて平次郎と金三郎が松並木の土居を乗り越えて鑊を挟み込みました。
鑊は狼狽と恐怖のために転倒し、「勘弁してくれ、助けてくれ」と叫びましたが、隼太郞と平次郎が倒れている鑊の首と喉に切りつけ、金三郎が耳の下を斬って討ち果たしました。
そこへ飛び出していった隼太郞を追ってきた宿役人が追いつき、須藤三兄弟と原鑊の死体を見つけました。
また、目撃していた戸塚宿の百姓権兵衛も、仇討ちの様子について証言をしました。
これらの話を幕府代官斎藤嘉兵衛が嘉永6年12月にまとめたのが、「戸塚郷土誌」に掲載されている顛末書なのです。
この事件の結末は、須藤隼太郞、平次郎、金三郎には正当な仇討ちと認められてお咎めなし。
また、原鑊の父原伝右衛門もお咎めなし。ただし須藤三兄弟を子の仇と思ってはならないと言い渡されています。
要件付きで許されていた仇討ちですが、仇討ちの仇討ちは禁止されていたからです。
大坂に設置してある説明板にはあっさりとしか書かれていませんが、大坂の仇討ち事件にはこんなに緊迫した物語があったのです。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
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